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心が疲れたときに読むサッカー

今だからこそ思い出す 日本女子サッカーの黎明期と意外なところでの女子選手との再開(六川亨)

オーストラリアとニュージーランドで開催されている女子のW杯で、グループCの日本はザンビアとコスタリカに勝ち早々とベスト16進出を決めた。7月31日の第3戦、スペイン戦ではカウンターが炸裂して見事4-0の完勝。グループリーグを首位で突破し、決勝トーナメント1回戦の相手はノルウェーと決まった。

そんな女子のW杯に、日本は1991年の第1回大会から連続して出場している。これは何気に凄いことだろう。そして過去に優勝と準優勝がそれぞれ1回ある。

日本の女子サッカーが、初めて国際大会に参加したのが1981年に8か国により香港で開催された第4回アジア女子選手権だった。日本は初戦でチャイニーズ・タイペイに0-1と負けたが、当時はチャイニーズ・タイペイが大会を連覇していて、この大会でも3連覇を果たすことになる。ちなみに、この試合でスタメン出場した11人全員が国際Aマッチデビュー戦となった。

日本は続くタイにも0-2で敗れたものの、第3戦のインドネシアに1-0で勝って初勝利を奪った。それから10年後、福岡で開催された第8回アジア女子選手権で日本は2位となり、第1回の女子W杯の出場権を獲得する。当時は中国とチャイニーズ・タイペイの2強がアジアでは図抜けた存在だった。

そんな女子代表を初めて取材したのが1981年9月に神戸で開催された、ポートピア81国際女子サッカーだった。これは同年に神戸で開催された博覧会(ポートピア)を記念しての国際大会で、1981年4月に正社員としてサッカーダイジェスト(日本スポーツ企画出版社)に入社後、2度目の地方出張だった(初めての出張は8月に岡山で開催されたJSL東西対抗戦。釜本邦茂さんにとって最後の東西対抗戦となった。ちなみに3度目の出張も同年11月の神戸で、こちらは釜本さんのJSL通算200ゴールだった)。

なぜ、わざわざ神戸まで女子代表の取材に行ったのか。その理由は簡単で、定期刊行物である月刊誌は毎月25日に発売していたが、総ページ数は174ページのボリュームがあった。「ネタ枯れ」だからといってページ数を減らすわけにはいかない。なにかしら「サッカー」で誌面を作らなければいけないため、神戸まで1泊2日で取材に行ったのだった。

海沿いにある神戸中央球技場(現ノエビアスタジアム神戸)は、かつてサントスで来日したペレが芝生を絶賛したこともあり、一度は行きたいスタジアムだった。試合はイングランドに0-4と完敗。舞台を西が丘サッカー場(現・味の素フィールド西が丘)に移してのイタリア戦は0-9の大敗を喫した。

現在開催されているW杯で、ブラジルのエースストライカーであるマルタ(37歳)は2003年のW杯から出場しているが、彼女のニックネームは「スカートを穿いたペレ」である。そして1981年に来日したイタリアのエースストライカーが、「女クライフ」と言われたビニョットだった。本家である“ヨハン”のように背筋をピンと伸ばし、俊敏な動きで相手を翻弄する。ポジションはFWだが、ゲームを組み立て、アシスト役に回ることもあった。

この2試合を取材して感じたのは、イングランドやイタリアがやっているのが「サッカー」なら、日本は何か違う競技をやっているのではないかという違和感だった。女性がサッカーをやること自体、日本ではまだ奇異な目で見られた時代でもある。イングランドやイタリアの選手は20代後半から30代にかけての“大人”の選手だった。一方の日本は、大学生や中高校生が主力で、身体的なハンデもあった。

対戦相手が軽々とサイドチェンジしているのに、日本の選手のキック力はその半分くらい。ボールを小学生と同じ4号球にして、ピッチもハーフコートにして欲しいくらいの実力差が当時はあった。「ヨーロッパの先進国に追いつくためには何年かかるのか」と、暗澹たる気持ちになったものだ。

ところが前述したように、10年でW杯初出場を果たすと、その20年後には初優勝まで達成してしまった。これだけ短期間で急成長を遂げたカテゴリーは女子サッカーだけだろう。そして、この時に取材した選手とは7年後に思わぬところで再会を果たすことになる。

1988年に西ドイツ(当時)で開催された欧州選手権、当時はまだEUROとは言われていなかった大会は8チーム参加のコンパクトな大会だった。決勝戦は1974年のW杯でも決勝戦で使われたミュンヘンのオリンピア・シュタディオン。この大会が国際的なデビューとなったルート・フリット、マルコ・ファンバステン、ロナルド・クーマン、フランク・ライカールトらを擁するオランダと、戦前の下馬評を覆して決勝まで勝ち上がったソビエト連邦との激突だった。

そんな大会を取材か見学しているのは、サッカー専門誌の記者・カメラマン以外はよほど暇な人間しかいない時代だった。何しろ日本が参加していないのだ。大手新聞社を始め、欧州選手権という大会そのものが日本では認知されていなかった。そんな大会の決勝戦で、いきなり「六川さんですよね」と名前を呼ばれた。

声を掛けてくれたのは神戸FCレディースの元日本代表選手だった。1981年当時の代表選手とともに欧州選手権を見学に来たという。僕自身、W杯を現地で取材したのは2年前のメキシコ大会が初めてだったし、欧州選手権は今回が初めてだ。それだけ海外の大会に足を運ぶのはハードルが高いのに、彼女はあっけらかんと西ドイツにいた。

欧州選手権の決勝は、フリットの豪快なヘッドと、アーノルド・ミューレンの後方からのロングパスを、ほとんど角度がないと思われたところから豪快なボレーでGKダサエフの頭上を抜いたファンバステンのゴールでオランダが初優勝した。

このシュートも個人的には歴史的なゴールと記憶しているが、それよりも忘れられないのは1981年に神戸で取材した日本女子代表選手との再会だ。サッカーをしていれば、あるいは取材していれば、どんな出会いがそこにはあるか。それを実感した駆け出し記者の思い出でした。

 

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