2024年シーズンのサッカーJ1で「旋風」となっているFC町田ゼルビアを取材している中で、FWエリキが「コパ・デ・ムンド」のことを語り始めた。今年30歳になるブラジル出身のFWにとって、ポルトガル語で言うワールドカップのこと。「ロマーリオ、ベベット、タファレル、ロナウド……」と名前が並んでいく。1994年大会のワールドカップをブラジルが制したときの顔ぶれだ。
この大会は決勝の相手となったイタリアともども、名だたる選手ぞろい。のちのJリーグにやってくるジョルジーニョやドゥンガ、イタリアはフランコ・バレージにパオロ・マルディーニ・・・。試合は120分の激闘の末にPK戦へ突入し、イタリアの5番目のキッカー、ロベルト・バッジョの蹴ったボールが大きく上に逸れた瞬間にようやく決着が付く。今も多くのサッカーファンの脳裏に焼き付いているシーンだろう。
エリキは「まあ、偶然というか。自分は1994年のアメリカのワールドカップでブラジルが優勝したときに生まれました。そのときに活躍したロマーリオ、ベベット、ロナウドといった選手たち。その時代のことです」と言葉を続ける。ここで「偶然というか……」と言ったのは、彼自身にとって、とても意味のある日だったからだ。
エリキの誕生日は1994年7月18日。この年のワールドカップでブラジルが通算4度目の優勝を手にしたのが、その前日の7月17日。つまり、ブラジル中が優勝の祝福に包まれる中で、エリキは小さな小さな町で生まれている。
「私の父は本当にサッカーにパッションを持っていたので、自分の名前も本当はロマーリオかベベットにしたかったと……。ただ、母がそのことについて反対したので私の名前はエリキになったんです。そんな経緯があって」。幼き日に両親から聞いてきた自身の話を思い出しながら、そう語る。
だからだろう。エリキがよく言う言葉がある。「サッカーをするために生まれてきた」。今季もそれをよく聞く。2024年5月19日、昨年8月19日以来の公式戦復帰となったJ1第15節の東京ヴェルディ戦で今シーズン初、復帰後初となるゴールを決めた試合後、胸を張って「自分はサッカーをするために生まれてきたと思っています」と言った。
◆
「自分は神様の御加護を受けてこういうチャンスを得たという思いがあります」。ブラジルのサッカークラブ、ゴイアスFCで15歳でプロ契約を結んで以来、プロサッカー選手でいることをエリキは感謝の思いを込めてそう語る。ブラジル北部パラ州の出身。その中でも「自分は幼少時代、自然の多い環境で生まれました。テレビだったりテクノロジーが発達したようなものはなく、サッカーチームすらない状況で生まれ育ちました」という。
当時、その地区の人口は14人だったそうだ。ご近所さんの家でさえ「1キロくらい離れている。本当にそれぐらい小さな町で、人口が少なくて」。経済的にも決して楽ではなかったといい、日本語を使って「ムズカシイ」と表現するのだが、それはある意味で、ゆっくりとした時間が流れる環境でもあった。
父親は米を栽培したり、ブラジル料理のフェジョンに使う豆をつくったりする農業で生計を立て、母親は学校の先生。「町自体も小さかったので学校も本当に小さくて、学校と言えるかどうかの学校があって、自分も含めて生徒は3、4人。小学4年生くらいまでは母が先生として勉強を教わっていました」
生活の中には当時、サッカーボールもなかったという。そうはいっても、ここはサッカー大国だ。「サッカーボールのようなボールがなかったので靴下を丸めてボール代わりにしてサッカーをやっていたこともあります。だから小さいときから自分の周りにはサッカーがありました」と懐かしむ。
やがてゴイアスFCのサッカースクールに通うと、10歳の時だったか、チャンスが巡ってきた。ケガをした同世代の代役として試合に出場。「当時はだれも自分のことを知らなかったと思います。おそらくその試合は7-1で勝ったと思うのですが、6ゴールを自分が決めたんです」。それが目に留まり、ゴイアスFCのアカデミーへ。
「自分のプレーのタレント性を見込まれ、2年目からはクラブが全部面倒をみてくれることになりました」。クラブによるサポートはエリキに対してだけでなく、家族も含めてのこと。「ゴイアスはタレントを育てることに力を入れていて、自分もその目に留まってお世話になったんです。だから自分の人生はすべてそこで築かれたと思っています」と言う。
そこからはサッカーに専心してきた。どんなに遊びたい盛りの年代であっても、自身の価値観としては「すごく徹底して自分をコントロールしていました」。プロ契約を結んだ15歳からゴイアスFCで11年。新人王も獲得した逸材はパルメイラスやアトレチコ・ミネイロ、ボタフォゴといったブラジルの名だたるクラブを経ながら「プロフェッショナリズムを学んできました」と言う。
サッカーはきれいなプレーだけではない。「多くの先輩方から、例えば試合でもよく言われるマリーシア。ずる賢さとかそういうものも学びました。成熟するために多くのことを学びました」と続ける。
2019年夏、初のJリーグクラブとして期限付きでJ1の横浜Fマリノスに加入。小柄だがバネのあるストライカーが日本にその名を知らしめることになる。破壊力のある3トップの一角としてJ1制覇に貢献。翌2020年の退団までにJ1の41試合で21ゴールを量産した。
◆
中国のクラブを経て昨季日本に戻ってきたエリキは、当時J2の町田に加入し、再びゴールを重ねてきた。そのプレーは、決して独り善がりなプレーではない。チームや仲間、監督へのリスペクトの精神を持ち合わせるのは、人柄ゆえだろう。
チームがJ2を一気に走り抜けた昨年2023年シーズンは序盤の2・3月度に月間優秀選手賞を手にすると「個人の賞ですが、チームみんなのおかげ」と何度も繰り返した。高校サッカーからJリーグに挑戦して1年目だった黒田監督へのリスペクトも最大限に払い、こんなことを口にしたことがある。
「自分はスコラーリ監督(ポルトガルやブラジルの代表監督などを歴任したブラジルの名将)とも仕事をしてきましたが、同じように黒田監督も、しっかりと選手たちに自分たちの基礎を植え付けるために、われわれがすべきことを課しています。その結果として、選手たちは自分たちがやるべきことに集中できているのです」
ピッチを離れれば、クラブのイベントにも協力し、昨年夏の夏祭りイベントでは法被を着てハチマキを頭に巻く機会も。そんなエリキは「自分はすごく日本の文化とか習慣に興味があって、いろいろなことをインターネットを通して勉強しているところです」と笑っていた。すべてを吸収しながら、自分の糧とするのがエリキだ。
ただその夏、左膝の大きなけがに見舞われ、長期離脱を余儀なくされた。8月19日のJ2第31節、清水戦。前十字靱帯や半月板損傷などいくつもの負傷があり、チームを離脱して治療とリハビリテーションのためブラジルに戻ることになった。手術と厳しいリハビリテーションを経て再来日したのは、エリキ不在の間はもたつきながらもチームがJ1に昇格した今年の3月。エリキがコンディションを整えながら試合に復帰したのは5月のことだ。
しかし、再び戻ってきたJ1の舞台は、J2のときほどエリキの周りにボールはこぼれてこない。相手守備陣もタフだ。ときにいらつくエリキは荒々しさも見せる。マリーシアなプレーは、ここ日本ではときに厳しい見方もされる。それでも、簡単にはいかない試合を経てこそ「ストレスをもたらす試合も自分にとっては必要なこと」。成功へとつなげる奮起のための力にするのだという。
自然豊かな環境で育った感性のストライカーでもあり、キックオフ前にグラウンドを出てきた際に、まず風の向きを感じたり、ピッチの形状をしっかり頭にいれる。芝の状況によっては、グラウンダーのボールはここでは通さないでほしい、と味方に要求することもあるそうだ。それほど全身でサッカーをする。「だって本当に選手にならないほうが難しいんじゃないかという空気の中でぼくは生まれました。ブラジルが優勝したときのこと。選手になるための道がそこでつくられていたんじゃないかな」
セレソン優勝から30年の2024年夏。サッカーをするために生まれてきたと口にするエリキは「まだまだ成長出来ると思っています」と走り続けている。
(※この記事は全文無料で公開されています。ここから下の部分には記事はありませんが、もしこの記事を読んで心に響くものがありましたら、サポートをお願いいたします。以下の「この続きはcodocで購入」の下のバナーをクリックしていただければ、codocを通じて寄付することができます)