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心が疲れたときに読むサッカー

一つのサッカークラブが終わりを迎え、次のサッカークラブができたときの物語(森雅史/日本蹴球合同会社)

1997年1月31日、一つのサッカークラブが終焉を迎えた。本拠地となるスタジアムのこけら落としから、わずか7カ月と15日後のことだった。

1996年、佐賀県鳥栖市をホームタウンとして日本フットボールリーグ(JFL)に所属し、Jリーグ入りを狙っていた「鳥栖フューチャーズ」は、3年連続4位に終わって昇格を逃した。そしてリーグ戦終了後となる1996年11月27日、メインスポンサーが突然撤退を発表。一気に経営危機に陥った。

問題が発覚した後、佐賀の政財界はそれぞれの立場で地元の人たちは存続に向けて動いた。だが急に代わりは見つからない。あるとき「新規スポンサーになる」という人物が現れ、Jリーグも対応のために九州入りしたのだが、結局詐欺師だったと判明した。

動き出したのはサポーターも同じだった。すぐさま集会を開き対応策を協議する。「九州の片隅の、Jリーグにも届いていないクラブが消えたとして、はたして世間は注目してくれるだろうか」。それが一番の懸念材料だった。署名活動を開始し、当時は今ほど盛んでなかったインターネットを通じて情報を拡散した。

日本各地からの反応は驚くほどあった。それは各チームのサポーターが、プロリーグを目ざしていたクラブが消滅することをJリーグバブルの終わりと重ねて危機感を持っていたからだろう。鳥栖のファンが様々な場所で存続運動をするたびに温かい声が寄せられた。

1997年1月1日には天皇杯決勝に鳥栖サポーターが現れて、ハーフタイムにクラブの危機を訴える。「HELP! 全国の皆さん、鳥栖フューチャーズがピンチです」「我々に夢をもう一度」という横断幕を掲げ、応援歌である「翼をください」を歌った。

その際には様々なクラブのサポーターが駆けつけ、署名活動を手伝い、横断幕を持ち、歌を一緒に歌った。当日のカードはサンフレッチェ広島vsヴェルディ川崎だったが、本来スタジアムに来る予定のなかった他のチームのサポーターも数多く活動に参加していたのだ。それは日本サッカーの前に黒雲が立ち塞がっているのを敏感に感じていたからに違いない。

だが、そんな活動は無に帰した。1月31日、サポーターたちが横断幕を広げて見守った株主総会でクラブは解散を決議する。鳥栖フューチャーズは救えなかった。

その翌日、東京では鳥栖の問題を話し合うJリーグの臨時実行委員会が開催された。Jリーグの川淵三郎チェアマンの他、各クラブの社長クラスが次々に集まる。そのビルの前には寒そうに立つ鳥栖サポーター3人の姿があった。せめて実行委員会のメンバーにアピールしようと東京にやって来たのだ。

当日は土曜日だったため、正面の門は閉まっていた。それを知らず表で待っていたサポーターを哀れに思ったのだろう。当日やって来たJリーグの関係者が休日入り口を教えた。サポーターは慌てて移動すると、持っていたプラカードを掲げてアピールする。だが入っていく人たちはみんな厳しい顔をして通り過ぎていった。

小一時間が経ったころ、寒空で待つサポーターの元にJリーグの職員が現れた。ビルの中に通され暖が取れると思っていたところで、3人はそのままJリーグの事務所のさらに奥へと案内される。階段で上がっていく豪華な部屋は実行委員会のメンバーが会議をしている場所だった。

川淵チェアマンが「せっかく来ていただいているのですから、一言ずつ語っていただきましょうか」と声をかけ、サポーターは1人ずつ口を開いた。3人はたどたどしく、自分たちにとってチームがどれくらい大切か、地域にとってどんな拠り所なのかを語っていった。

3人が話し終わった後、頭を下げている3人に向かって最初は小さく、そして次第に大きく拍手が起きた。一番大きな拍手はチェアマンからだった。

その後サポーターはビルの下まで案内された。外は寒いだろうから、とビルの中で待っていいことになった。

そこからまた1時間。会議が終わったのか実行委員会のメンバーが次々に下りてくる。今度はみんな表情が穏やかだった。何人かはサポーターに向かって「がんばってね」と声をかけていく。その委員たちを囲んで報道陣が話を聞いているのを、サポーターは少し離れてみていた。

臨時実行委員会の出席者がみんな帰ったのだろう。報道陣がいなくなりサポーターも所在なげになって帰り支度を始めたとき、サッカー専門誌の記者がサポーターに「よかったね」と耳打ちした。

みんなが愛した「鳥栖フューチャーズ」はなくなった。「よかった」ではなかった。だが佐賀からサッカーの火は消えなかった。できたばかりのスタジアムは主を失うことはなかった。それは「よかった」。

そうやってできたのが「サガン鳥栖」。特例措置として翌年のJFL参加が認められただけではなく、ヤマザキナビスコカップにも参戦できた。そのナビスコカップでは浦和レッズ、セレッソ大阪、鹿島アントラーズという人気チームと同組に入れてもらう。そして相手チームの多くのサポーターが鳥栖まで駆けつけて入場料で貢献するだけでなく、募金までしてサガン鳥栖に届けていた。

全国の人たちに支えられながら最初の一歩を踏み出した。みんなが救ってあげたいと思わなかったら、きっとこの小さなクラブは潰れていたに違いない。

翌年、鳥栖サポーターがシールを作った。そこには「TOSU Name of LOVE」と書かれていた。

 

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